日常感想文 -読書/お金/経済等-

本や経済ニュース、株等について感じたことを書きます。

日本人の給料と個人の給料について

 本日、日本人の給料が上がらない理由を述べた以下の記事を読んだ。この記事の筆者が私の職種では著名な方だったので珍しく複数ページにわたる記事を読むことにしたのだ。

「日本人の給料がどうにも上がらない決定的な理由」

 

 日本人の給料が上がらない理由として主に①製造業ベースの考え方/②人材流動性の低さ/③日本人給与の上方硬直性の3点を理由として挙げており、私としてもある程度理解できるものであった。

 ただし、①製造業ベースの考え方についてに関して言えば、これは業種特有の考え方・構造によるものとは言い難いように感じる。例えば、日本同様GDPに占める製造業比率が高いドイツでは所得は増加しているし、絶対値として金額は日本に比べ高い。業種の問題ではなく、記事の筆者が指摘しているように、安定性を求める・変化を嫌う傾向が好ましくない方向に働き、結果として成長の阻害要因となっているのだろう。また②人材流動性の低さ/③日本人給与の上方硬直性に関しても、根本にやはり国民性として安定性を求める・変化を嫌う傾向があるように思われる。

 今回の記事で指摘されている要因に限らず、日本人の給料が上がらないのには色々な理由があるのだろうが、私は根本としてはそもそも国の経済が成長していないというのが単純な理由であると考えている。どうしたら日本の経済が復活するのかというのは、その専門の方々にお任せするが、これを解決しない限りは給料の上昇は期待できないだろう。

 さて、ここで少し視点を変えて個人の給料について考えた場合はどうだろうか?この場合は解決策があるように思える。私はいわゆる若者とまだ呼ばれるであろう世代のため、また中年に差し掛かる世代とは状況も考えも異なることは承知のうえだが、単純に転職は非常に有効な手段だと思う。「転職の思考法」という本に対する書評でも述べたが、給与において"業界の生産性"という要素は重要である。相対的に高収入な人間も別に仕事の能力が高さによってそれを得ているわけではない。その要素もないわけではないが、単純に生産性の高い業界の上位の企業にいれば、それだけで収入には相対的に高くなる。

 また、外資系に転職するのも一つの手段である。外資系といっても色々あるが、やはり日本よりはいい給料を支払っているところが多い。外資系で海外基準の給料を貰いつつ、物価の安い日本で暮らすというのはなかなか悪くない気がする。英語が必要になるケースが多いというのは一つネックポイントかもしれないが。

 ダラダラと書き連ねてしまったが、日本はたしかに成長せず、マクロでみると給料も上がっていないかもしれないが、別に個人としては悲観することはないと思う。個人のミクロレベルで見ればいくらでも手段はあるし、日本は治安もよく、外食が驚くほど安く、おいしい。少なくとも私は日本が好きである。ただし、日本全体が成長しない以上、流れに乗っていても仕方がないので、常に頭を働かせ生きていく必要があるのだろうと再度認識させられた記事だった。

浪江町に行ってきました。

 先週休日を利用して電車で浪江町に行ってきた。

 仙台から常磐線に乗り、途中原ノ町駅で乗り継ぎをし、2時間弱で浪江駅に着いた。浪江-富岡間が断線してしまった時刻表を横目に駅の外に出る。そのまま町役場のほうに歩いていくと思いがけず、賑やかな音が聞こえる。何かと思い町役場まで向かうと、「まるしぇの日&北海道・東北YOSAKOI」というイベントがやっているようで、近隣の大学生やコスプレ集団がよさこいを踊っている。変な言い方になるが、なんだが想像していた浪江と違って思いがけず楽しい気分になった。地元の人がまだ住民はまだ600人程度と言っていたが、なんだがみな楽しそうで活気を感じた。

 しかしながら、町役場から少し離れるとやはりそこには厳しい光景があった。解体予定となっている家屋や雑草が伸びっぱなしで遊具が見えなくなっている幼稚園。購入したガイガーカウンターの数値も場所によっては毎時1マイクロシーベルトを記録した。

 一通り町を歩き、駅前のカフェに入ると、メニューに食べたかった"浪江焼きそば"があり、注文。極太麺の焼きそばという感じで美味しかった。

 帰りの電車で浪江町について考えた。明るい面もあれば暗い面もあったと思う。今回訪れた浪江町はイベント開催中であったため、もしかするといつもと異なる姿であったのかもしれないが、町の人々には笑顔があり、明るさがあり"復興"を感じさせるものであった。一方で、現在は町民が600人しかいないという現実があり、いまだ解体予定の家屋が多く残されていることを考えると、町がかつての姿を取り戻す日は遠いと言わざるをえないと感じた。

 実際に浪江で、暮らし生活営むわけではない私にはこれ以上何かを語ることは難しいが、せめてまた浪江を訪れようと思う。

”転職の思考法”は会社というものに対する価値観を提示してくれる

 一部で話題の書となっている以下の本を読んだ。市場価値について基本的なことを丁寧に説明した良書であり、どちらかといえば現在転職を考えていない人にこそ読んでほしい本である。

このまま今の会社にいていいのか?と一度でも思ったら読む 転職の思考法

 本書では、市場価値は"業界の生産性"、"技術資産"、"人的資産"の3つの要素の掛け算にて決まると主張している。個々の要素の詳しい説明はしないが、私はここで、"業界の生産性"という要素が市場価値という観点では重要であるにも関わらず、軽視されがちではないかと感じた。市場価値という言葉を聞くと、個人の能力、素質等に依存した何かのように聞こえるが、実際には環境としてどこにいるかというのも非常に重要だということである。つまり、おなじような能力であっても、業界によって給料が大きく異なる可能性がある。皆が皆より高い給料だけを求めて仕事をしているわけではないが、給料を考えた場合業界の選択は重要な要素となる。

 その他本書は市場価値についての説明をしてくれているのだが、私が本書を読んで得たことは会社との付き合い方に関する一つの考え方である。本書では会社に従属せずに生きていく"思考法"が提示されているが、実際には転職そのものを推奨しているという印象はない。ただ結局市場価値を考えずに仕事をしてきた人間にはいざというときには選択肢がなく、嫌な仕事でも続けざるを得ないという現実が示され、それを避けるための"思考法"が説明されている。

 そして私がこの本を読んで思い出したのが以下の言葉である。

「会社というものは自分の味方ではない。敵とまでは言えないが、少なくとも黙っていても会社が自分のために何かを施してくれるというものでは絶対にない。会社で自分の思いを通すためには、会社と個人は常に対等の関係になければならないし、さらに対等な上で日々これ勝負であり、これにある程度勝たなければ、自分の思いを遂げることは出来ない」(服部暢達 ゴールドマンサックスM&A戦記 -伝説のアドバイザーが見た企業再編の舞台裏 P.2)

 もしかするとこのような考え方は人によって馴染まないのかもしれない。しかしながら私はこのような考え方のほうが健全に感じる。会社であれ個人であれ、他者が「~してくれるだろう」という期待にもとづいた関係性というのは私にとっては不健康な関係に思えるのだ。このような考え方に共感が持てるのであれば、"転職の思考法"は読んでみて納得でき、参考になる部分が多いのでぜひ読んでみてほしいし、共感できなくても世の中にはこんな考えの人たちがいるのだなあという観点で得るものはあるはずなので興味があれば手に取ってみるとよいかもしれない。

「ホンダは自社で技術開発していない」を受けての感想?

 先週、以下のような記事が投稿され、話題となった。ホンダを3年で退職したという報告とともに、ホンダは自社で技術開発を行わないとの旨が書かれていた。私は技術者ではないので、記事の筆者の気持ちを理解できない部分もあると思うが、これに関して個人的な感想を述べたい。

新卒で入社した本田技術研究所を3年で退職しました

 私の経験からするとブログ記事は基本的には事実であると思われる。先進安全や自動運転に不可欠なカメラやレーダー等のセンシングデバイスに関しては、コンチネンタル、ボッシュデンソー、ZF-TRWなどのいわゆるメガサプライヤーが技術を持っているため、程度の差こそあれ完成車メーカーはサプライヤーに開発委託をし、日程や細かい仕様の整合を行っているはずである。このブログの筆者はエンジニアとして思いが強く、こうした自分で手を動かせない状況を非常にもどかしく感じていたのだろうというのは容易に想像がつく。そしてエンジニアであればこういった思いを抱えている人も多いのではと。

 一方で、センシング等をこうしたサプライヤーにいわば丸投げする戦略が完成車メーカーとして間違いであるとは言えない。こうした技術を自社だけで開発していくのは非効率であり、ほぼ不可能である。またブログの筆者は"技術開発をしない"と言っているがおそらく技術開発をする領域としない領域があるのだろう。個々の技術をサプライヤーに依存していたとしても、それらを統合していくための開発は行っているはずである。例えば、自動運転であれば、センシングデバイスの情報に基づいて、電動パワステを操舵させる必要があり、サプライヤーから技術を買ってきただけでは機能は実現しない。また、丸投げにするにしろサプライヤーや技術の見極めは開発の重要かつ難易度の高い仕事である。カメラといっても、単眼カメラ・ステレオカメラなどあり、またそれをセンサー類とフュージョンさせるかどうか等、自社の状況と技術の趨勢、サプライヤーの技術力などを見極めながら、サプライヤー選択をし、1台の車として機能を作り上げていくのは容易なことではない。

 上記のようなことから、私はホンダが"技術開発をしない"ということに関して特にマイナスのイメージを持たない。むしろ気になるのはホンダが組織としてモチベーションを保つ構造を作れていないのではないかということである。往々にして、一部分だけが切り取られた仕事を渡される若手にとっては、明確な意味づけなしに仕事のモチベーションを保っていくのは難しい。当該のブログの筆者はおそらく技術に対する探究心もあり、向上心もある前途有望な若者なのだろう。こうした若手を辞めさせず、育てられるかどうかが会社の将来に関わってくるのではないかと思う。

 まとまりなく書いたが、最後にほぼ私と同世代であろう当該ブログの筆者が次の職場でより活躍していけることを願う。

教員の働き方改革どのようにすれば達成されるのだろうか

 昨今、教員の労働環境が問題となっており、度々ニュースや新聞記事にもなっている。モンスターペアレンツやいじめの問題も労働環境を過酷なものにさせている要因だが、最もわかりやすく改善が必要なのは労働時間であろう。下記リンク先の記事にもあるように、中学教諭では、過労死ラインとされる残業月80時間越えは当たり前である。

<都教委調査>過労死ライン超え 中学教諭7割

 文部科学省で実施された教員勤務実態調査(平成28年度)を参考にしながら、実態を見てみると小学校教員よりも中学校教員のほうが激務度が高い。その違いが何に起因するかというとやはり部活動である。私自身教員ではないが、教員の友人の話を聞く限り、サッカー等のポピュラーな部活の顧問の担当になってしまうと本当に休みがない。場合によっては月1回休めれば良いほうなんて月もあるとのこと。さらに悪いことに、前々から教員の労働時間は問題となっていたにも関わらず、平成18年から平成28年までの1o年間で教員の労働時間は増している。

 このような労働環境ではあるが、政府は本気で対策する気があるとは言い難い。話題になっている「働き方改革」においても、教員は残業時間規制の対象外とされた。たしかに教員は「専門職」であり、いわゆる「ホワイトカラーエグゼンプション」的な働き方が本来適しているのかもしれない。しかしながら、現状教員の行っている仕事はとても「専門職」とは言い難い。やったこともない部活の顧問にされ、目的のわからない資料の作成に忙殺される、それが教員の現状である。

 こうした状況は、教育にとって大きな損失である。教育のプロである教員が生徒教育に十分なリソースを割けず、門外漢である部活の顧問や事務作業に多大な時間を取られることは、生徒にとっても良いこととは言えないだろう。そのため、私は教員の「働き方改革」において重要なのはもう一度「専門職」として教員を捉えなおすことだと考えている。例えば、教育の国として知られているフィンランドでは、教員が「専門職」として確立しており、部活や事務作業等に多大な時間を要すということはない。教員にしかできないこと/教員でなくてもできることを分け、教員としての業務をしっかりと定義し直すべきである。

 上記は私の個人的意見で、教員の方々にとっては、もっと全然違う意見が出るのかもしれない。しかし、いずれにしても教員の労働環境の改善が不可欠であることは変わらないはずなので、教員の現状に関して様々な改善案が現場から出てきて, 徐々に変わっていって欲しい。。

ライフシフトが示す未来はハードだ

 いま話題の「ライフシフト」を読んでみました。この本は、ロンドンビジネススクール教授のリンダ・グラットン及びアンドリュー・スコットという人が書いた本で、簡単に言えば、長寿化により多くの人が100歳まで生きるようになる中、どのように人生を設計していけばいいのかということを書いた本でした。

 この本のなかでは、人生100年時代においては、従来の「教育→仕事→引退」という3ステージで人生を考えることはできず、そのような生き方では老後の生活資金を確保することもできないと語られている。人生100年時代においては、マルチステージを生き、時にはキャリアを中断し、新しいスキルや知識、人的ネットワークなどの生産性資産に投資し、自己の再創造が必要となる。

 そして、本書ではこれから実践されるマルチステージとして、「エクスプローラー」、「インディペンデントプロヂューサー」、「ポートフォリオワーカー」が定義される。それぞれの詳しい説明は割愛するが、こうしたマルチステージでは、自己で選択し、リスクを取り、絶えず自己を高めていくことが要求される。私は、これはなかなかハードな社会だと感じる。というのも、こうしたことを実施できるほどの意志と能力を持った人間はそんなに多くない。私が考える一般的な人間は、私を含め周りに流されがちであるし、現状を変える一歩もなかなか踏み出せない。いままでは、それでも良かったが、今後は変わらなければいけないというのだ。

 この本に書いてある未来のような働き方が一般的になるかどうかわからないが、本書を読んで、人生100年時代の生き方を真剣に考える必要があると思った。興味があれば、是非本書を読んでみてほしい。 

 

知的複眼思考は全ての大学生に読んでほしい本

 知的複眼思考は僕が大学生生活を送る中で最も為になった本だと思う。そして社会人になったいまでも考え方のベースとして欠かせないものとなっている。

 「知的複眼思考」は「自分で考えるとは何か」ということを教えてくれる。具体的には、「批判な読書」、「疑似相関」、「問いの立て方」といった項目で、思考の仕方を説明してくれる。これらの内容は社会学系の学生にはとりわけ重要かつ基本的な内容であり、これらを取得するのとしないのとでは考えの深さに大きな違いが出るだろう。

 こう言った説明をすると何だかノウハウ本のように聞こえるが、この本で最も重要な部分はそこではないと僕は考えている。むしろ重要なのは、こうした考え方を身に付けることで、「正解」や「常識」といった幻想から自分を解放させることだろう。一見「正しい」と思えるものの中にも様々な面があり、見方を変えれば違う結論が出てくることもある。僕がこの本から学んだのはそういうことだ。

 本書は難しくはない。平易な言葉で書かれており、文章も読みやすい。一方で優しくもない。この本は、誰かに考えを委ね自分の考えを放棄することを許してはくれず、常に考えることを要求するからだ。

 この本は巷のロジカルシンキング本を何冊も読むよりもよっぽど思考をロジカルにしてくれる本だと思う。機会があれば是非読んで見てほしい。